昭和49年07月21日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 信心をさせて頂いたら、信心の世界に住むことです。いうなら今まで信心のなかった世界におった私共が段々信心が解らしてもろうて、信心の世界に住み替えると言う事です。信心はしておっても中々の住み替えができない。矢張り信心のない者も同じような事を言うたり、思うたり時には信心のない者の以下の様な事である自分に気がついて、是ではならんと一段と信心を進めて、信心を高めていく。
 そして信心の世界に住む。私は今日は徳を受けて身しのぎをする様になれと言う事は、信心の世界に住むと言う事だと思うですね。そこにはです今まで信心のなかった時代の物の見方、考え方というものが全然変わって来なければならないです。私今朝方お夢を頂いたんですけど、私がもうそれは本当に極楽ム-ド漂うような素晴らしい2階に、私がおるんです。沢山の人もおりましたけど、誰が誰やら解らなかったけども。
 そこへ私がおりましたら、母が、いわゆる母のためには曽孫にあたります恵城を抱いて、2階に上がっておる所を頂きました。「どうして婆ちゃんああた、こげな体で2階に上がって来れたね」て私が言いようとこでした。「それがね、いつのまにか、いつのまにかあがっとった」てこう言うんです。そこで私がとにかく大変だっただろう。例えば歩くのでも、ハイハイしなければ出来ない程しのお婆ちゃんが。
 恐らく一段一段その曽孫をです、一段上の方に置いては自分が又上がり、又一段上の方に置いてはまた自分が上がりと言う様にして、上がって来たんだろうと思うておる所で目が覚めた。私共が今日皆さんに聞いて頂いておることは、いわゆる信心のない世界と信心の世界というのは、1階と2階の差がなからなければいかんです、ね。1階にはそれこそ難義が満ち溢れておる。見るもの聞くもの本当にこれが地獄の様相かと言う様な所すらがある、ね。病気の苦しみがあり、いつも誰かが争いをしておる。
 それこそ物又は金に不自由をしておると言う様な世界が1階の世界。2階の世界というのは、もういうならば、極楽の世界とでも申しましょうか。信心の世界というのは、大体は信心の世界は即極楽の世界なんですよ。それを信心を頂いておっても、ね、上ったり下ったりして居る様な事ではないかとこう思うのです。じゃ実際に極楽にありながらも極楽を極楽と自覚しきっていないという、いうなら頂きたらんような心の状態であると言う様な事だと思うんです。
 それは大変だっただろう。お婆ちゃんのあの五体の不自由なね、朝の3時半には必ずここの控えの横を通ってここへ出てきます。今はク-ラ-が入りませんから、襖を全部開けてあります。それをこう通る時に、あそこで私共親子3人奉仕座っておりますと、あそこでもう深々と一礼をしてから通ります。まあ今朝もご苦労様という意味じゃないだろうかと思うんです。そういう例えばうまずたゆまずの信心をさせて頂いておる母。またこれ母と言う事よりも、私というてもよい。
 皆さんのためには、皆さんが私を親先生というて下さるから親先生、ね。曽孫の恵城を抱いて上がっておると言う事は、いうならば曽孫からばばに至るまで、合楽の全体と言う様な意味を感じます。その全部の人達をそれと簡単じゃなかった。ここまでに引き上げここまでに高めさして貰う為には、それこそ一段一段いわば抱いておる曽孫を上の段に置いては自分が上がり、上の段に置いては又自分が上がると言う様にして、ようやく2階にいわば住み替える様なおかげを頂いた。最近の御理解皆んなそうですね。
 皆さん一人一人がです、もう5年と例えば合楽におかげを頂いて、例えば日参でもできておるほどしの人なら、もう必ず合楽を家庭に現わしておると言う事です。それはその日暮らし的ではあるけれども、ならお金に不自由はしていないのだ。争いはないのだ。病気はもう本当に根絶したかのように、病気も知らんようなおかげを頂いておると言う事実があると言う事です。
 いうなら信心の世界に住んでおる。そしていうならば、信心の眼を以て見る時にです、今まで難義と感じておった事が、有り難いと解らして貰う。いうならば次元の違った世界に住み替えておると言う事です。1階から2階に。それは並み大抵の事ではなかっただろう。生の凡夫の私がです、例えば合楽にご神縁を頂いておる人全部をです、いうならば極楽の場に高めると言う事は、大変な事であっただろうとこう思うです。
 また大変な事だったんですね。様々なところを通らして頂いて、そしてなら昨日の御理解を頂くようにです、自力の世界からいうなら他力の世界へ。今まではずっと眺めてござった私共の修行ぶりというか、信心をずっと眺めてござった天地の親神様がです、ここに手を差し伸べて下さる所へ至っておるんだと。「5」の世界からね「6」の世界、いうならばめぐりの世界から、めぐりのお取り払いを頂いた世界に住み替えれるほどしのおかげを頂いておるんだ。
 今まで20数年間願いに願って成就しなかった事でも、是からは成就するんだと。神様が手を差し伸べてござるのだから、こちらも手を差し伸べて「どうぞ助けて下さい」と言や助かるんだ。その助かる条件がです只助けて下さいではない。合楽を現わす事の為であり、真実神様の手にも足にもならせて貰おう、お役に立ちたいの一念がどうぞ助けて下さいと言う事になるから、なるのだと言う様御理解を昨日頂きましたですね。
 所がです、昨日はあれ程しの御理解を頂いたのにもですね、いうならば反響が非常に少なかった事です。本当に合楽全体の方達に芯からそれこそあの御理解を頂いてもらいたかった。頂くだけではない。頂いて貰ったらそこにです、本当にさあ今日から助かる。本当の、本当の意味においての助かり、いうならば神様の願いが成就する程しの助かりが出来れる、いうならば時期が到来したんだと、歓喜に満ちて溢れなければならない様な御理解だったと思うんです。
 所が反響がないんです。私は昨夜もその事を、それ一部の方達からは非常に感動的なお届けもありました。けれどもその事お願いしとりましたらね、葉の漬物ですね所謂やましお漬物の、それをもうそれこそ絞りきってしまうような、絞りきっておる味もそっけもないだろうという、いうなら瑞々しさの一つもない、お漬物を頂いたんです。潤いがない瑞々しさがない。信心にはもう絶対この瑞々しさというのが必要なんです。いわゆる生々しい、いうなら生きておると言う事なんです。
 信心して徳を受けて、身凌ぎをする様になれ。合楽全体がです合楽全体が一緒に助かろう。そして一緒に身凌ぎの出来る程しのおかげを頂こう、階下から2階に上がらして頂くと言う程しのおかげを頂けれる時期到来しておる今日の合楽と言う事の自覚がです、どう言う所からそういう瑞々しいものが欠けてくるのであろうか。無くなるであろうか。成程先生があげんほんなこて言いなさるばってんか、自分のお願い20年もして来た事が成就しないとじゃけんで。
 そげん簡単にはとても成就するまいて、もうお話頂きながら決めてる。そして願いの筋をどういうふうにもって行ったら良いかと言う事すらも、考えていない。只助かる助かるというのではない。時期が到来しておると言う事と同時に、そんなら願いの筋というものをです、本当にいわゆる神様の手と私共の手がこうやって、救おうとなさる手と救うて下さいという手が触れ合わなければいけないと言う事にです、難しさを感じられた所に、いうならば味もそっけもない様な御理解になったのではなかろうか。
 あまりにも次元が高過ぎる。私はその事がです私のお話はね、あまりにも話が飛躍的だとね。昨日までは階下におったとが、今日からはもう一遍2階に上がるという、今まで地獄におったとが一遍にお話頂いて極楽に住むという、あまりにも飛躍的であるからです、だから聞き慣れている人なんかはもう全然わからないでしょう。けれども聞き慣れておる皆さんですらです、何か味もそっけもない様なふうにしか頂けていないと言った様な事なのですけれども、実を言うと私の信心はいつも実証的である事なんです。
 親先生があげん言いよんなさるとが、やっぱあげなふうになってきたという、実証的なものがあるということです。私はそれを考えて、こうしてちょっと文章にしてみたんです。どういうところに、また信者さんの所にピタッとするものがないのだろうか。例えばお芝居でいうならです、素晴らしい舞台などの時には、じわがくるといいます。じわというのはね、見ておる観衆まで溜め息をつくんです。「あぁなんと」と、もうその見とれてしまっておる。思わずそのため息がね。
 舞台にじわになって波の様に押し寄せて来る事をじわといいます。私もお説教さして貰いながら、お話皆さんに伝えながらです、そのじわを本当に感ずる事があります。そういう時はいうならば受けたと言う訳なんです。所が昨日はねあまりにも素晴らしかったけれども、そのじわを感じ得なかったですね。一部の人達からだけだったです。そんな感じがします。いうならば味もそっけもない、瑞々しさのないものに、あまりにも飛躍的だったからですお話が。「どの様な理念が未来の力になるか。
 とにかく私の話は飛躍的ですから、聞き慣れない者には解りません。実際の事で私は実証していきますから、段々解って来ると思いますけれども」という、文章にするとこういうふうになる。私自分の所謂あんまり受けなかった事をです。大体いうたらですね、もうとにかく昨日からの御理解なんかは例えば1時の御祈念なんかがが終わった後にです、思わず知らず立ち上がってです、「皆さん今日のお話は頂いて行って下さい」て、大体言う人がなからなきゃいけないのですよ、本当は。
 もうとにかくもうじっとして聞いておられませんでした。皆さん本当に合楽を現わすと最近いわれておるそのための御理解を道付けをです、昨日の御理解、今日の御理解頂いたら、もうじっとしておられない躍動がね、生まれて来る位のものがなからないけんです。折角ここいっぱいの者が1時に、それこそ朝のご祈念には参れない人達が、いっぱい詰め掛けて来ておるですから。それがさあ終わったら、サア-と波が引くように帰って行くという、それをこう引き留めにゃおられないようなものがです。
 実際はなからにゃいけんです。でしょうが特に私は総代幹部の方達にそれを思いますね。昨日指出の田中さんがあの御理解を頂いた後にお届けをしておられます。今朝は子供の事の是これをお願いさして頂こうと思いよったら、昨日の御理解を頂いてです色々と深く頂くが、実は私は今朝からこういうお夢を頂いたと言われるのです。この石浦という所は皆さんも覚えておられましょうけれども、ここに合楽が移転する時に神様から「石浦の地」という事頂いたんです。所が実際はこの道一重向こうは指出になるんです。
 指出の方ばっかりを皆が一生懸命力を入れましたです、ね。そして結局出来る様で出来なかったんです。私は石浦を探せと言うけど石浦にはそげんとこは全然なかという事でした。そしてたまたま上の方のあそこ三反か四反か買う事で手付けまでうちました。そんならそこは、私はまだ見にも行かなかったし、どういう場所であるかも知らなかったんですけれども、それが石浦ですという事だったので、すぐ買う事にしました。
 そしてすぐ手付けを打ったんです。そしてならここがおかげを頂くと言う事になったのも、あっというまにね、六軒もの地主さん達が一晩の内に纏るほどしのおかげを頂いた。それもなら上に矢張り手付けを打った色々な事情が続いておったから出来たという感じで、おかげを受けたんですけれども、結局その石浦という事をね、神様その時に御理解に石は心ですね。心の浦いうなら心の港だと仰った。だからここには石浦という所には、沢山のこの心の港にです、ね。
 いうならばそれこそ出船入り船沢山の船が、横付けされるようなおかげを頂かなければならんという、御理解を頂いておった事がありますから、記憶に残っておる人があるかも知れませんね。初めからだから神様の地だったんです、石浦と言う所が、合楽の石浦が。その事を頂いてある。石浦が港が愈々広うなった所、大きな船が出たり入ったりしておる、そして横付けになっておる船に合楽のご信者さんのどなたが一番に乗られるだろうかと言うておる所です。昨日の御理解がそうです。
 誰が一番に乗れるだろう、親先生の仰る通り今まで20年間も願って願って願い続けて来た事が成就しなかった。半ば諦めておった事がです、おかげを頂いたと言う様な人が誰が一番に乗るだろうかと言う所であった。そしてその浜辺でです、田中さんのご主人がね、何かこうやって貝をあたっておられる。それがあわびである。そのあわびをこうこう押えて、じょうたんしておられると言う様な所を頂かれた。だから田中さん、これは子供のことをあんたが願うことの前にご主人のことを願わなきゃいかんよ。
 神様が片思いの淋しさをしておられる。是は子供のことはなんというても、あんたと主人と夫婦で願わなければ本当の成就にならないよ。してみると今日の御理解の願いの筋を立てると言う事は、まず願っておる事のもういっちょ前に願わなければならない事があると言う事、気付かさして貰いましたですね。たあだ子供の事を、子供の事をというて母親が一生懸命願っておる。
それ前に子供の事は親が願えと仰る程しだから、その子供の事を親が、両親が揃うて願いをすると言う事から子供の事は願わんでもおかげに成る様なおかげになってくるのじゃないだろうかね、田中さん。と言うて話した事でした。ですから、昨日の御理解をもう一遍思い起こして今日の御理解にありますように、「信心して徳を受けて、身凌ぎをするようになれ」もう一人、二人ではない。合楽全体の信者、信奉者がです身凌ぎの出来る程しのおかげの頂けれる時期に到来しておると言う事。
 それは今朝からお夢頂いたように、ここまで来るのにも大変な苦労がかかっておるんだという。母があの不自由な体で、一段一段昇ってくる。そして2階に上がってきたと言う事は、大変な苦労であったが。皆さんも共に苦労をしてきたが、なら私も共にいうなら苦労をしてようやく合楽全体が合楽を現わすことに一丸となれれるような時期が到来しておるのですから、改めてそこのところを頂き直さしてもらい、改めてです瑞々しい、私はいうなら純な心です。
 最近の御理解を頂いて本気で神様が下さろうとするおかげを頂こう。「5」から「6」への転換の時期である。自力ですがってきた信心から、もう他力で助かられる場に立っておる合楽。私は今日はこの身しのぎの出来る信心というのはね、もう一人二人やない。合楽全体を一緒に救おうとする働きも力も現在の合楽には、もうでけてきたという感じなんです。ここに私は本当の助かりを求めなければならんと思うですね。
   どうぞ。